

幕末の人物との出会いも
会津藩
松平容保
松平 容保(まつだいら かたもり)は、江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。 血統的には水戸藩主徳川治保の子孫である。 京都守護職。 美濃国高須藩主・松平義建の六男で母は側室古森氏。 兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の1人。 幼名は_之丞。 官は肥後守。 号は祐堂、芳山。 神号は忠誠霊神。 正室は松平容敬の娘。 子は松平容大(長男)、松平健雄(次男)、松平英夫(五男)、松平恒雄(四男)、松平保男(七男)。 養子に松平喜徳。 現在、徳川宗家は直系、徳川慶喜家、尾張徳川家は傍系で容保の系統で構成されている(四男恒雄の子孫)。
経歴
会津
弘化3年(1846年)に8代藩主・容敬の養子となり、嘉永5年(1852年)に会津藩を継ぐ。 万延元年(1860年)に大老・井伊直弼が水戸藩浪士に殺害された桜田門外の変では、水戸藩討伐に反対する。 井伊暗殺後に朝廷や薩摩藩の後援で将軍後継となった一橋慶喜(徳川慶喜)、政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、文久2年(1862年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推される。 元々病弱な体質でこの当時も風邪をひき病臥していた容保は、はじめ家臣の西郷頼母らの反対により固辞するも、やがてそれが噂になり、面子がなくなった養子の容保は慶永らの強い勧めによりこの大役を引き受けることとなる。 またこれは貧乏くじであり、後の会津の悲劇へ繋がっていく。
京都守護職
京都守護職に就任した容保はさっそく会津藩兵を率いて京都へ上洛し、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、最初は倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」の方針で治世をすすめた。 最初の容保の動向に対しては慶喜たちは呆れていたという。
その容保を激怒させる、徳川家に弓引く事件が起きた。 足利三代将軍の晒し首事件(足利三代木像梟首事件)である。 これが起因で容保は政策を180度転換して配下の壬生浪士組(後の新選組)などを使い上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたる。 天皇御前で馬揃えをやったり宮門警備を申請するなど駆け引きを繰り広げた。 容保自身は公武合体派で尊王倒幕派と敵対し、八月十八日の政変では薩摩藩と手を結んで御所を封鎖し、三条実美ら長州派を朝廷から排除した。 その後は朝廷参預に任命されたが、参預会議は崩壊。 徳川慶喜と弟で京都所司代の松平定敬の3人で一会桑政権を作り京都の政治を指揮した。 1864年(元治元年)の禁門の変などで、長州藩の勢力排除に動いた。
慶応2年(1866年)に孝明天皇が崩御し、容保本人は守護職辞退を何度も申し立てるが幕府も朝廷も認めなかった。 朝廷の命令により、容保は京都残留となる。 徳川慶喜が将軍となる。 容保は慶喜の従兄弟の息子であり、そのために将軍の近親者となった。
慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると京都守護職も廃止される。 王政復古が行われ、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵との衝突から鳥羽・伏見の戦いが起こると会津藩兵も戦うが敗走し、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱すると従い、弟・定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下る。 慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内では武装恭順が大方の重臣の意見であった。

会津戦争
容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。 西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。 容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城し、降伏勧告に応じて佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。
明治
その後は鳥取藩に預けられ東京に移されて蟄居するが、嫡男・容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。 容保はそれからまもなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となった。 正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡する。 享年59。 死の前日には明治天皇から牛乳を賜った。 なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際書簡と御製(和歌)を賜ったのだが、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。 また会津戦争については周囲に何も語ることはなかった。
孝明天皇の宸翰の中には京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、如何に孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。
墓所は福島県会津若松市の松平家院内御廟。
昭和
昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(松平容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。 会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。 また、同年には子母澤寛『新選組始末記』、平尾道雄『新選組史禄』が刊行されており、この年は逆賊新選組再評価の転機となる年であった。
官職および位階等の履歴
※日付は明治4年までは旧暦
天保6年12月29日、美濃国高須藩主・松平義建の六男として江戸藩邸で誕生。
弘化3年(1846年)4月27日、陸奥国会津藩主の後継者となる。
12月16日、従四位下侍従兼若狭守に叙任する。
嘉永5年(1852年)閏2月25日、藩主となる。 肥後守に転任。 侍従如元。
12月16日(1853年1月25日)、左近衛権少将に転任する。 肥後守如元。
万延元年(1861年)12月12日、左近衛権中将に転任する。 肥後守如元(以後、会津中将の称が生じる)。
文久2年(1862年)閏8月1日、京都守護職に補任。 正四位下に昇叙。
文久3年(1863年)12月30日、朝議参与に補任。
文久4年(1864年)2月11日、京都守護職を免じ、陸軍総裁職に補任。
2月12日、参議に補任されるも固辞。
2月13日(3月20日)、軍事総裁職に転職(陸軍総裁職の名称変更による)。
改元して元治元年3月14日、朝議参与辞職。
4月7日(5月12日)、軍事総裁職を免職。
4月22日、京都守護職に復職。
慶応3年(1867年)4月23日、参議に補任(以後、会津宰相の称が生じる)。
慶応4年(1868年)1月10日、解官。
2月4日、致仕。 藩主の地位を降りる。
2月8日、登城禁止処分となる。
改元して明治元年11月2日、因幡国鳥取藩に幽閉。
12月7日、鳥取藩に永預り処分となる。
明治2年(1869年)12月7日、紀伊国和歌山に遷される。
明治4年(1871年)3月14日、陸奥国斗南藩に預替となる。
8月、東京に移住。
明治5年(1872年)2月14日、預り処分を免ずる。
明治9年(1876年)11月1日、従五位に叙位。
明治13年(1880年)2月2日、栃木県日光市山内鎮座の日光東照宮宮司に就任する。
3月13日、東京都台東区上野鎮座の上野東照宮祠官を兼務する。
5月18日、正四位に昇叙。
明治17年(1884年)、日光東照宮宮司並びに上野東照宮祠官を免職。
明治20年(1887年)9月、日光東照宮宮司に復職。 栃木県日光市山内鎮座の二荒山神社宮司も兼務する。
12月6日、従三位に昇叙。
明治21年(1888年)、東京府皇典講究所監督を兼務。
明治22年(1889年)、栃木県皇典講究所監督を兼務。
明治26年(1893年)9月22日、二荒山神社宮司辞職。
12月4日、正三位に昇叙。
12月5日、死亡。
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佐川官兵衛
佐川官兵衛(さがわ かんべえ、1831年10月10日(天保2年9月5日)−1877年(明治10年)3月18日)は、幕末期の会津藩の家老。 名は勝、直清という。
1831年(天保2年)、会津藩士の子として生まれた。 藩主・松平容保に仕え、1862年(文久2年)には容保に従って上洛し、物頭次いで学校奉行に任じられた。 1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いで大敗北を喫する。 会津藩領に戻ると越後戦線へ出陣。 戦線が不利になると奥羽列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津藩領へ戻らされることになる。 この時、若年寄に昇進。 だが、若松城から打って出ようとした時に酒で酔い出陣に遅れて大敗北をなす。 帰城はせずに城外で戦った。 藩主や家老・若年寄とともに東京で謹慎。 旧会津藩を斗南藩として再興が許されると、現在の青森県三戸郡五戸町へ移住した。
廃藩後は内務省警視局(警視庁の前身)に出仕、警視に任命される。 1877年(明治10年)に西南戦争が始ると、警察も動員されたことにより、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として参戦するが、熊本県阿蘇郡で敵弾に眉間を打ち抜かれて戦死する。 享年47。
西南戦争で、佐川が警視庁抜刀隊を組織したという誤解があるが、抜刀隊編成以前に佐川は戦死しており、抜刀隊を佐川が組織したという事実は無い。
性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。 武勇に秀でていたことを薩摩・長州に恐れられ、「鬼の官兵衛」または「鬼佐川」「鬼官兵衛」と恐れられた。
墓は大分縣護國神社。
西郷頼母
西郷 頼母 近悳(さいごう たのも ちかのり、文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、江戸時代後期、幕末期の会津藩の家老。 父は西郷近思(ちかし)、母は律子、兄弟多数。 妻は千重子。 子は長女細布子、次女瀑布子、長男吉十郎有鄰(ありちか)、三女田鶴子、次男五郎(夭逝)、四女常盤子、五女季子の二男五女。 菊池氏族西郷氏。 家紋は鷹の羽、また保科家の九曜紋を許されていた。 明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。 号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。
経歴
西郷家は、室町時代は仁木氏の守護代を務めた三河の名家で、松平家が勢力を広げる過程で、臣従した。 頼母の西郷家は、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、西郷近房などを輩出した家系であった。 1860年(万延元年)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。 1862年(文久2年)、容保が幕府から京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれることを恐れて容保に辞退するように進言したため、容保の怒りを買う。 その後、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説く。 だが、認められず国許へ帰らされ家老を解任され、蟄居する。 解任理由は無断上京を咎められたからとも言うが定かではない。 その後、家老たちの間で頼母の罪を許してはどうかと話し合われてもいる。
1868年(明治元年)、戊辰戦争が起きると容保から家老職復帰を許された。 頼母は江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。 このとき、頼母を始め主だった家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順を勧めたが、新政府側の要求は容保親子の斬首であった。 やむなく頼母も白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍の攻撃を受けて白河城は落城した(白河口の戦い)。 白河城の奪還ならずその後は別の峠を守っていたが、母成峠が占領され城下へ新政府軍が攻め寄せる。 頼母は会津若松城に帰参し再び恭順を勧めた。 しかし、会津藩士の多くは頼母の進言を聞き入れず、なおも新政府への抗戦を主張したため、一子吉十郎と共に城を脱出した。 頼母自身は軽き使者の任を仰せつかり、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野権兵衛の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。 道中は藩主容保か家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。 その後榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦った。 なお、母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自刃している。
旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなるが、1872年(明治5年)に赦免されて伊豆で私塾を開く。 その後は神社で神職を努めたが、一時期政治運動にも参加した。 血縁が西郷隆盛と内通していることから明治政府に職を追われることにもなる。 隆盛と頼母の手紙のやりとりはあったが、慶応年間からの知り合いと伝承ではなりたっている。 1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。
著作に『栖雲記』がある。
家族の受難は戊辰戦争の悲話として紹介され、頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価もされている。
講道館柔道草創期の講道館四天王の一人である西郷四郎は養子である。
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